文全協による要望・声明

「群馬県伊勢崎市石山南遺跡・石山南古墳群の保存を求める要望書」

                               2024年8月8日
文化庁長官  都倉 俊一 様
群馬県知事  山本 一太 様
群馬県教育委員会教育長 平田 郁美 様
伊勢崎市長  臂 泰雄 様
伊勢崎市教育委員会教育長 三好 賢治 様
株式会社アクティブフォームス代表取締役 柳澤 武 様

                            文化財保存全国協議会
                              代表委員 澤田 秀実
                              代表委員 橋本 博文

     群馬県伊勢崎市石山南遺跡・石山南古墳群の保存を求める要望書

 上毛三山の赤城山南方に位置する石山丘陵周辺には、市町村合併前から『上毛古墳綜覧』で知られ、現在は石山南古墳群と呼ばれる多くの古墳が認められる。
 その石山南遺跡・石山南古墳群に民間建築資材会社が倉庫を増築しようとしたことから、伊勢崎市教育委員会指導のもと、山下工業株式会社文化財事業部が調査主体となり「記録保存」を前提とした事前発掘調査が実施された。その結果、想定されていた赤堀村107号墳が検出され、その南陸橋部周辺から見返りの鹿形埴輪や鎌形の石製模造品、手捏ね土器などが出土した。そして、この赤堀村107号墳の帰属時期は出土遺物から6世紀初頭と考えられている。さらに、調査区の南東隅から埴輪窯1基、調査区南辺や東辺から工房跡4基、粘土採掘坑跡2基が発見され、埴輪製作遺跡であることも判明した。遺構は、調査区南側の波志江沼から入り込む埋没谷に面して広がりをみせている。
 特に注目されるのは工房跡とされるもので、竈の無い平面長方形の竪穴建物跡が多いものの、中には竈のある通常に近い竪穴建物跡もみられる。その床面には被熱痕や粘土塊、砕かれたような埴輪の細片、破裂した土師器細片などが認められ、この工房跡が埴輪製作の後に土師器製作に転用された可能性も考えられている。
 このように、本遺跡は調査前から知られていた赤堀村107号墳だけでなく、その築造直前まで操業されていた埴輪、土師器の製作工房跡群からなるものであることが新たに判明した。また赤堀村107号墳から出土した埴輪は、本遺跡で製作された可能性が高く、同古墳被葬者は当埴輪製作集団の管掌者だったとも考えられる。したがって、埴輪製作の一連の遺構群と共に古墳も関連付けて保存することが重要である。
 ところで、国宝となった埴輪3件中の2件を出土している群馬県にあって、現在、埴輪製作遺跡として国指定史跡となっているのは藤岡市本郷埴輪製作遺跡1件しかない。本遺跡での埴輪窯跡の発見は、1997年の藤岡市猿田埴輪窯跡以来27年ぶりで、工房跡や粘土採掘坑跡がセットで確認されたのは太田市駒形神社埴輪製作遺跡を除くと県内初である。さらに、本遺跡では埴輪だけでなく土師器も同時期に製作していたことが、前述した工房跡だけでなく、粘土採掘坑跡からの遺物出土状態によって証明された点は稀少例として特筆される。また、本遺跡の南方の地名、「波志江(はしえ)」も「土師(はじ)」関連の地名として注目される。
 このように本遺跡は、土師氏・土師部の実態解明に向けて、埴輪製作集団と土師器製作集団との関りが窺える唯一無二の遺跡である。本遺跡での埴輪製作関連の遺構群は調査区外への広がりをみせており、将来的な確認調査により大規模な埴輪・土師器製作遺跡になる可能性が高い。
 以上のことから、私たちは石山南遺跡・石山南古墳群について、下記のことを要望する。

                   記

1.石山南遺跡と赤堀村107号墳が完全なかたちで保存されるよう、国・県・市の関係部局で協議すること。
2.本遺跡の調査区外における遺構の範囲確認をおこなうこと。
3.本遺跡の重要性にかんがみ、史跡指定に向けた抜本的な措置を講ずること。

2024年08月11日

「都旧跡「浴恩園跡」の保存と再生を求める決議」

                                2024年7月10日
文化庁長官  都倉 俊一様
東京都知事  小池百合子様
東京都教育委員会教育長 浜 佳葉子様
中央区長   山本 泰人様
中央区教育委員会教育長 平林 浩樹様
中央区議会議長 瓜生 正高様

                              文化財保存全国協議会
                                代表委員 澤田 秀実
                                     橋本 博文

       大会決議「都旧跡「浴恩園跡」の保存と再生を求める決議」

 幕末に日本を訪れたイギリス人の植物学者で、プラントハンターとしても知られるロバート・フォーチュン(Robert Fortune、1812-1880)は、江戸を「ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても、優るとも決して劣りはしない」、“世界に類のない園芸都市”と称賛しました。その江戸を“世界に類のない園芸都市”へと発展させる礎となったのは、徳川将軍家や各藩の大名が江戸屋敷(上・中・下屋敷)に造営した、いわゆる大名庭園で、その数は1000にものぼるといわれています。そうした数ある大名庭園のなかでも代表するといわれているのが、松平定信(1758-1829)の浴恩園です。
 定信は、8代将軍徳川吉宗の孫で、老中首座として寛政の改革(1787-1793)を断行したことで有名ですが、大の庭園好きでもありました。寛政5年(1793)老中を辞した定信は、一橋家より分与された築地の下屋敷・庭園を「浴恩園」と名付けて再整備しました。御殿として春風館と秋風館を建て、庭園を春と秋に分けて、それぞれが潮入りの池をもつ池泉回遊式庭園です。春風の池には桜、秋風の池には紅葉、池には日本中から収集した蓮を配するなど、四季の草花を愛でることができる天下の名園とうたわれ、多くの文化人との文芸の交流の場ともなりました。
 この浴恩園は、文政12年(1829)の江戸大火で館などの建物は焼失しましたが、二つの池からなる回遊式庭園は残りました。明治期には海軍関連の施設となりましたが、池泉回遊式庭園はそのまま残され、1923年(大正12)の関東大震災後に中央卸売市場の建設計画が持ち上がり、35年の築地市場の開場の際に埋め立てられたとされますが、経緯の詳細は不明だということです。ただし、工事を請け負った浅野商会によって、浴恩園の築山と池について、根切りと保存工事を施した写真が残されており、その写真からは、地下に丁寧に埋蔵・保存された様子がうかがえます。なお、かつての園地は、旧築地市場の中央部から北西部に位置し、現在、東京都指定の旧跡「浴恩園跡」(1926年に史跡、1955年に都条例の改正により旧跡指定)となっています。
 築地市場は、2018年に江東区豊洲に移転し、約23ヘクタールの跡地が残りました。東京都は、今後の「築地まちづくり」を進めるために、都旧跡「浴恩園跡」の実態を把握する必要から、当該地の埋蔵文化財の予備調査を2021・22年度、試掘調査を2022年度に実施しました。東京都の開発面積は約19.4ヘクタール、そのうち予備調査と試掘調査をした面積は約0.66ㇸクタールと、わずか3.4パーセントにすぎません。それでも江戸臨海部を埋め立てて造成するための柵跡とともに、浴恩園に関しては、A区で春風の池の護岸の石積み、①区で秋風の池の東側と中の島の範囲、④区で秋風の池の南側の端の部分が確認されるというように、浴恩園の池泉回遊式庭園が奇跡的に残されている可能性が高いことがわかってきました。
 こうした予備調査と試掘調査の成果があるにもかかわらず、東京都は本年4月19日に築地跡地での再開発を約5万人収容の屋根付きスタジアムや高級ホテルからなる事業として、三井不動産を代表とする企業グループを選んだと発表しました。しかし、「築地まちづくり」は、「歴史・文化資源などのポテンシャルを活かす」ことを方針の一つとしていたはずです。築地にとって、浴恩園は「歴史・文化資源」として欠かすことが出来ない“世界に類のない園芸都市”であるばかりか、世界遺産とも呼べる“江戸の潮入庭園”として、隣接する浜離宮恩賜庭園や旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園とともに活用することこそが、「歴史・文化資源などのポテンシャルを活か」した「築地まちづくり」といえます。
 わたしたちは、東京都に対し、現在進めている築地跡地の再開発計画を直ちに見直して、都旧跡「浴恩園跡」の発掘調査を実施するとともに、その成果を活かして浴恩園を保存し、再生して「築地のまちづくり」を真に持続可能な社会の実現に資する計画に改めるよう求めるものです。
 以上決議します。

  2024年6月23日
                        文化財保存全国協議会第54回市川大会

2024年07月12日

「市川市国府台地区の下総国府跡遺跡に関し、長期的な視野にたった保存整備方針の確立を求める決議」

                                2024年7月10日
文化庁長官  都倉 俊一様
千葉県知事  熊谷 俊人様
千葉県教育委員会教育長  冨塚 昌子様
市川市長   田中 甲様
市川市教育委員会教育長  勝山 浩司様

                             文化財保存全国協議会
                                代表委員 澤田 秀実
                                     橋本 博文

    大会決議「市川市国府台地区の下総国府跡遺跡に関し、
           長期的な視野にたった保存整備方針の確立を求める決議」

 千葉県市川市の国府台地区は、「国府台」というその名前により、古くから下総国府の置かれた場所と考えられてきました。しかし、明治期より敗戦までは陸軍が駐屯し、敗戦後は埋蔵文化財調査のないまま、学校などの教育施設、病院、スポーツ施設、公営住宅となり、国府の実態は明らかになっていませんでした。
 1990年代後半に入り、これら敗戦直後に建てられた諸施設が建替えの時期を迎え、建て替えに伴う埋蔵文化財調査によって、少しずつ国府の実態が明らかになってきました。特に2017年から3次にわたって行われた国府台県営住宅建替えに伴う調査、それと2019年から現在に至る国府台野球場再整備に伴う調査では、下総国府に関する極めて重要な知見を与える大きな発掘成果を得ました。
 国府台県営住宅敷地は国府が置かれた台地の南端部に位置しますが、その西側部分にあたる区域を調査した第1次調査では、幅10mに及ぶ南北方向の大路と最大幅4.3m、深さ1.8~2.0mの逆台形の断面を持つ南北方向の区画溝が確認されました。さらに東部分を調査した第3次調査では、西側とほぼ同様の区画溝と、その東側にもう一つの断面が方形に近い区画溝とともに、倉庫と思われる6棟の建物跡などが確認されました。
 この台地南端部分は市川市教育委員会が従来の調査から、葛飾郡衙正倉院を想定している場所であり、県営住宅敷地内の調査結果はこうした、下総国府が葛飾郡衙と一体な形で国府台の地に置かれていたという想定を裏付ける可能性も含め、今後検討されなければなりません。
 一方、再整備に伴う国府台野球場と周辺の調査では、多数の溝跡や建物跡などが見つかりましたが、中でも調査域北端部分の東西両端で国衙域を区画したと見られる溝の角が確認され、これにより下総国府の中心部にあたる国衙域の東西の幅が約220mだったことが明らかになったことは特筆されます。また、従来から下総総社跡とされてきた場所の区画が明らかになり、これらの調査成果から未だ確認されていない政庁の位置などの解明の足掛かりとなっています。
 このように発掘調査により、下総国府の実態が明らかになりながら、この地域の遺跡をどのように保存し、整備していくかの方針が確立されていないため、調査が終わると建替えなどの工事が計画通り進められ、発見された遺跡が失われつつあるという現実があります。
 こうした憂慮される状況を変えるため、私たちは、国、県、市が協議し、早急にこの地区の遺跡の保存、将来の整備の在り方を検討し、長期的視点に立った保存整備計画を策定することを求めます。
 以上決議します。

  2024年6月23日
                       文化財保存全国協議会第54回市川大会

2024年07月12日

「初代門司港駅跡」関連遺構の保存に関する要望書

                                2024年3月1日
文化庁長官 都倉 俊一様
北九州市長 武内 和久様
                              文化財保存全国協議会
                                代表委員 小笠原好彦
                                代表委員 橋本 博文
                              福岡県歴史教育者協議会
                                会 長  川上 具美

         「初代門司港駅跡」関連遺構の保存に関する要望書

 北九州市が「北九州市立地適正化計画」のあとを受けて策定した「門司港地区複合公共施設建設事業」を進めている中、先般、現門司港駅東側の建設用地内で発掘調査が行われ、「初代門司港駅跡」関連施設の基礎を示すさまざまな地下遺構がみつかりました。
 1891(明治24)年の構内図に照らしても寸分違わない位置に、機関車庫のコンクリート基礎と赤レンガの外壁、開業当時の駅舎の外郭石垣と、それに重複する形で築かれた2代目駅舎跡、また使用燃料廃棄場とみられる石炭ガラの集積もみつかり、まさに往時の九州鉄道起点駅の姿をほうふつとさせます。
 機関車庫は地形の変化に応じて基礎工法を変えており、建設技術の進化と変遷がみてとれ、近代日本を支える鉄道産業の歴史を物語る貴重な発見となりました。国の重要文化財に指定され、数年前改修工事を終えたばかりの門司港駅舎は北九州観光の目玉にもなっている人気スポットですが、「初代門司港駅跡」はこの原型として重要です。
 昨年の2023年11月19日の現地説明会では、鉄道ファンだけでなく、たくさんの門司区民や北九州市民、県内外の文化財関係者、建築設計技術者など、500人以上の見学者が訪れ、この遺跡に対する関心の高さを示しています。
 しかし、本調査区は門司区役所をはじめ、いくつかの公共施設の機能が統合・集約された新規高層建物の建設予定地にあるため、見つかった貴重な遺構は、その基礎杭埋設工事によって、ほとんどが壊されてしまうのではないかと危惧されます。
 「初代門司港駅跡」に始まる門司港駅は、現在九州鉄道記念館として公開している九州鉄道本社本館などとともに機能し、近代日本産業の動脈、頭脳となり、やがて世界遺産にもなっている官営八幡製鉄所の創設につながっていったと考えることができます。
 30年ほど前、東京の汐留遺跡で発掘調査された「旧新橋停車場」は、駅舎やプラットホーム、機関車庫、客車庫、転車台などがみつかり、現在、国指定史跡として駅舎も復元されています。
 また、近年では2019年に東京品川で高輪築堤とよばれる海を埋め立てて鉄道を通した遺構(基礎石垣)が、再開発工事中に約900mにわたって発見され、きわめて不十分ながら、その一部は2021年に「歴史上や学術的に価値の高い遺跡」として国の史跡に指定され、現地に保存されています。
 「初代門司港駅跡」関連遺構は、まさに明治日本の石炭産業を物流面で支えた原点ともいえ、世界遺産の構成資産にも匹敵する価値を有していると考えます。
 以上のことから、本会は、今回見つかった「初代門司港駅跡」の遺構を現地にて保存し整備して、後世に伝えるために必要な措置を講じていただきたく、下記のことを要望します。

                    記

1、今回の発掘調査で検出された「初代門司港駅跡」関連遺構を現地にて保存し、将来的には現門司港駅舎、九州鉄道記念館とともに一体感のある近代遺産として整備すること。
2、現在進行中の「複合公共施設建設事業」用地については、遺跡保護の観点から共存は難しいと考えるため、抜本的に見直すこと。
3、「初代門司港駅跡」関連遺構を、北九州市観光の目玉となっている「門司港レトロ」を構成する近代建造物群ともあわせて有機的に整備をしていくこと。
4、門司港駅周辺地下にまだ残っている近代遺構群の把握のための確認調査を継続的に行い、その成果を門司区民、北九州市民に随時公開すること。

2024年03月03日

「大社基地遺跡群主滑走路」東端付近の県有地の保存について(要望)

                                2023年10月25日
島根県知事  丸山達也 様
島根県教育長 野津建二 様

                            文化財保存全国協議会 
                              代表委員 小笠原好彦
                              代表委員 橋本 博文


    「大社基地遺跡群主滑走路」東端付近の県有地の保存について(要望)

 私ども文化財保存全国協議会は、「大社基地遺跡群主滑走路」の保存と活用について2021年3月に貴職へ要望しましたが、この「主滑走路跡」東端付近の県有地に、島根県健康福祉部が設置する出雲児童相談所を移転新築する計画の報道に接し、改めて「大社基地遺跡群」ならびに「大社基地遺跡群主滑走路」の現状保存を要望する次第です。
 「大社基地遺跡群主滑走路」は、アジア太平洋戦争最末期の1945年3月から6月にかけて建設された旧海軍大社基地の中心施設です。それとともに、島根県最大規模の戦争遺跡であり、その遺存状態が全国的にも稀有で学術的にも高い価値をもつことは、島根県民の皆さんのみならず、私どもを含めた全国の学術団体、文化財保存団体が認めるところです。
 貴職が躊躇されている戦争遺跡の文化財認定は全国各地で進められているところです。東京都内では埋蔵文化財として1970年代後半より記録保存の対象として扱われ、発掘調査やその成果に基づく現状保存、活用の実績もあります。また福岡県では県教委が戦争遺跡の悉皆調査を2017年から4カ年実施し、重要なものとして2023年3月に行橋市の旧海軍築城航空基地に設置された稲童掩体を県指定文化財にしています(市文化財指定は2002年)。
 私たちは、このような例を見るまでもなく、貴職が「大社基地遺跡群主滑走路」を正しく歴史遺産=文化財と認識し、「主滑走路跡」東端付近での開発計画を変更することを切望します。そして消極的な姿勢から脱し全国都道府県、県内市町村の範となって、遺された滑走路跡を中心とする大社基地遺跡群の現状保存のための適切な措置をおこない、将来の活用にむけて必要な施策を推進されることを強く要望いたします。

                    記

1.出雲児童相談所の移転新築計画を再検討し、「大社基地遺跡群主滑走路」東端付近の県有 地を現状保存すること。
2.大社基地遺跡群の歴史的重要性を考慮してこれを埋蔵文化財として取り扱い、史跡指定に向けて取り組むこと。

2023年12月24日

仁和寺前ホテル計画地の全面的かつ慎重な発掘調査の実施を求める要望書

                                 2023年10月5日

京都市長 門川大作 様
担当:京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課 御中

                    文化財保存全国協議会
                      代表委員 小笠原好彦、橋本博文
                    京都・まちづくり市民会議
                      代表 片方信也、大屋 峻、中林 浩、中島 晃
                    世界文化遺産仁和寺の環境を考える会
                      共同代表 山根久之助、桐田勝子
                    広く地域住民の声を聞き、
                       仁和寺門前のより良いあり方を考える住民の集い
                      代表 大森直紀

    仁和寺前ホテル計画地の全面的かつ慎重な発掘調査の実施を求める要望書

 京都市右京区にある世界遺産・仁和寺の門前に、現在、地下1階、地上3階建て、延べ面積5818.88㎡のホテル建設が計画されている。
 仁和寺の門前は、平安時代中期に後三条天皇が四円寺の一つである「円宗寺」を建立した場所として知られているが、最近になってホテル計画地から南東にある場所で計画された住宅建設に先立って行われた発掘調査により、円宗寺が建立された時期に相当する整地層が確認され、円宗寺のものと考えられる大量の瓦の出土が報告された。
 円宗寺は、四円寺の中でも最大の規模を誇ったと伝えられており、国家的な宗教儀式が複数回行われるなど、大寺院として複数の史料に名が残っているものの、これまでその実態は謎に包まれていた。しかし、令和4年11月28日から12月28日にかけて、京都市文化財保護課によって実施された発掘調査により、平安時代の整地層で溝状遺構が確認され、「京都市内の埋蔵文化財調査速報」NO.32(R4-10)によれば、その遺構は「円宗寺跡」で「今後、さらなる調査の進展が期待される」と指摘された。
 当該ホテルの計画地では、平成30年に部分的な試掘が行われ、当時「円宗寺跡」の遺構が検出されなかったとされたが、令和4年の発掘調査により「円宗寺跡」の遺構が新たに確認され重視されたことは、さきに述べた通りである。
 今回のホテルは、現市長のもとで上質宿泊施設誘致制度を適用して、延べ面積の特例緩和によって建設許可が出されているとはいえ、京都市の埋蔵文化財の調査がおざなりにされるようなことがあってはならないことはいうまでもない。
 世界的な歴史都市であり、世界遺産に登録されている仁和寺の門前において、文化財行政がないがしろにされることは到底許されない。
 以上のことから、文化財保護法の理念を尊重する私達は、京都市が当該ホテル計画地の全面的で慎重な発掘調査を実施することを要望する。
                                  以上

2023年12月24日

日本学術会議の声明に賛同します。

 文化財保存全国協議会は、日本学術会議の声明「内閣府「日本学術会議の在り方」についての方針」(令和4年12月6日)について再考を求めます」(2022年12月21日付) に賛同します。
                    2023年4月1日 文化財保存全国協議会常任委員会

 文化財保存全国協議会では、すでに文全協常任委員会名で声明「日本学術会議の新会員候補6名の速やかな任命を求めます」(2020年12月5日付、『文全協ニュース』227号所収)を発表し、菅義偉内閣総理大臣(当時)宛に送付しています。
 また、日本学術会議第25期推薦会員任命拒否に関する人文・社会科学系学協会共同声明(日本学術会議が発出した2020(令和2)年10月2日付「第25期新規会員任命に関する要望書」に賛同し、下記の2点が速やかに実現されることを強く求めます。1.日本学術会議が推薦した会員候補者が任命されない理由を説明すること。2.日本学術会議が推薦した会員候補者のうち、任命されていない方を任命すること。)に発出団体として参加しました(2021年2月28日付、『文全協ニュース』228号)。
 しかし、政府は2点の要望に対し具体的な対応を取らないばかりか、2022年12月6日になって、内閣府が「日本学術会議の在り方についての方針」を示しました。それを受けて、日本学術会議は検討を重ね、内閣府が示した「方針」が日本学術会議の独立性と会員選考の自主性に照らし疑義があり、日本学術会議の存在意義の根幹に関わる問題として政府に再考を求める声明を2022年12月21日に採択しました。
 文化財保存全国協議会は、その日本学術会議の声明「内閣府「日本学術会議の在り方」についての方針」(令和4年12月6日)について再考を求めます」に賛同し、日本学術会議の独立性を侵す試みに強く反対します。(事務局) 

2023年05月13日

奈良市・西隆寺塔跡の保存を求める要望書

                               2023年2月26日
文化庁長官 都倉俊一様
奈良県知事 荒井正吾様
奈良市長  仲川げん様
                            文化財保存全国協議会
                               代表委員 小笠原好彦
                                    橋本 博文
                            奈良歴史遺産市民ネットワーク
                               事務局長 小宮みち江

    奈良市・西隆寺塔跡の保存を求める要望書

 西隆寺は、僧寺の西大寺に対する尼寺として、平城宮の西北に隣接した平城京右京一条二坊(現在の近鉄西大寺駅北東側一帯)に造営されました。奈良時代の後半、称徳天皇の時代に、西大寺の造営と並行して767年に造営がはじまり、771年に完成したと考えられています。その後、鎌倉時代までには廃絶し、再興されることはありませんでした。そのため、資料豊富な南都諸大寺に比べて、まとまった研究はほとんどなく、その詳細は不明でした。
 ところが、1970年代前半に近鉄西大寺駅周辺の開発に伴い、ショッピングセンターや銀行店舗ビル等の建設に先立つ事前調査として西隆寺跡の発掘調査が行われ、金堂・塔・東門跡などが検出されました。『西隆寺発掘調査報告』(1976年、西隆寺調査委員会)によると、その際、留意されたのが、発掘調査によってはじめて検出された寺跡の一部を破壊から守り、これを新たに建てられる造営物の中でどのような可視的状況下で保存するかにあり、開発者側と協議をしてその同意を得、不十分ではあっても寺跡の一部を近代建築の内部に展示するという、当時としては新しい保存方式を実現したということです。塔跡については、銀行店舗建設の設計を一部変更して建築用地から除外し、埋戻しの上、その上部に方形の花壇として位置を示すことになりました
 このように民間と行政の協力によって保存されてきた西隆寺塔跡について、新聞報道によれば、近鉄西大寺駅前の再開発に伴い、消滅の危機にさらされているといいます。銀行店舗として建設されたビルはすでに解体され、土地もすでに民間業者に売却されていて、来年度には新たなビル建設がはじまるということです。その際、塔跡を残して建設するということがきびしい状況にあるといいます。
 しかし、半世紀前に民間と行政が協力して保存してきた貴重な遺構です。新たな再開発にあたっても、これまでの経緯を尊重し、ぜひ遺構を保存して後世に引き継いでいきたいものです。
 つきましては、関係各機関に西隆寺塔跡の保存への措置を強く要望いたします。

2023年03月05日

鳥取県米子市百塚88号墳に関する要望書

                              2022年12月20日
文化庁長官 都倉俊一 様
鳥取県知事 平井伸治 様
米子市長  伊木隆司 様
                            文化財保存全国協議会
                               代表委員 小笠原好彦
                                    橋本 博文

    鳥取県米子市百塚88号墳に関する要望書

 わたしたちは、鳥取県米子市淀江町で計画されている産業廃棄物処分場の計画地内にある百塚88号墳について、2020年12月9日付けで要望書を提出いたしました。
 その内容は、①すみやかに現存する古墳の墳丘の保護措置をおこなったうえで、すくなくとも事業計画が正式決定するまでの間、古墳の保存・活用を視野にいれた協議をおこなうこと、②文化財保護の原点に立ち戻り、地域の特質を物語る古墳の保護・活用をはかることでした。
 これについては、2021年1月17日付けで県担当部局より回答をいただきました。その回答は、①計画地内での地下水等調査の結果が出るまでの間、現地を盛土で保護するなど、開発事業者及び米子市と調整を進めていく、②古墳等の埋蔵文化財の保護、活用について、県文化財保護審議会史跡・埋蔵文化財部会の意見・助言をふまえ、引き続き地域と連携しながら適切に取り組んでいく、とするものでした。
 それから約1年6ヵ月後となる本年7月、地下水等調査の結果が公表され、産業廃棄物処分場の計画に支障はなく、令和5年度に処分場建設の申請がなされる予定であり、これをうけて県知事は9月の県議会で、担当部局の発言をふまえ、古墳を現地保存せず移築復元する意向であることを答弁されています。
 これまで、日本を代表する複数の文化財の専門家が、百塚88号墳を現地保存することの意義を訴えているにもかかわらず、開発事業を優先し、古墳を移築復元とする計画が進められていることは、まことに遺憾です。
 また、未調査の墳丘が現地に残っているにもかかわらず、記録調査は完了したとする県当局の認識も、文化財保護に精通した専門家の意見・助言をふまえたものとは思えません。
 上記の現況をふまえて、わたしたちはあらためて以下のように要望いたします。

 処分場建設が正式決定された後も、古墳を現地保存したうえで、その保護・活用を図る協議を、開発事業者、専門家および地元の関連団体と継続しておこなうこと。

2023年01月04日

高輪築堤跡の現地保存と第2期工事計画の説明を求める決議(大会決議)

  高輪築堤跡の現地保存と第2期工事計画の説明を求める決議

 日本の鉄道の歴史は、今から150年前の1872年(明治5)9月に新橋駅(現:汐留)から横浜駅(現:桜木町)までの区間を開業したことに始まり、その区間の一部は海に築堤がつくられました。JR山手線の新駅(高輪ゲートウエイ駅)周辺の再開発に伴い、この高輪築堤跡が発見されました。
 この高輪築堤跡は、在来の築城や台場建造技術とヨーロッパの技術を活用した、日本最古の海上鉄道遺構で、明治日本の近代化を象徴する建造物です。
 高輪築堤跡は、世界遺産級の文化財であることから日本考古学協会や日本歴史学協会などの様々な学術団体から全面保存を求める要請書が提出されました。それにも関わらず、一部を国指定史跡として残す以外は、解体を前提として記録調査が進められています。
 2022年1月28日、国際記念物遺跡会議本部は、高輪築堤跡を世界的に貴重な文化遺産と認め、第1期「1街区~4街区」の遺構が破壊されている現状に憂慮と疑義を示した「遺産危機警告(ヘリテージ・アラート)」を発出しています。
 このような状況下で、JR東日本は品川駅周辺の第2期「5・6街区」の工事については「未だ計画策定中」としています。すでに保存状態の良好な築堤跡の存在が確認されている「5街区」「6街区」で環状4号線の工事などが進んでいます。そのため、高輪築堤跡の破壊が始まっているのではないかと憂慮されます。
 わたしたちは、JR東日本に、「5街区」「6街区」の工事の進捗状況と「未だ計画策定中」とされている再開発計画のすべての情報を開示することを強く求めます。そして、「5街区」「6街区」再開発に当たって、地域住民及び国民の声を反映させた計画を策定し、国民共有の財産でもある高輪築堤跡を現地保存することを強く求めます。
 以上、決議します。

 2022年6月26日

 文化財保存全国協議会第52回東京大会

 

【送付先】
内閣総理大臣 岸田 文雄様
国土交通大臣 斉藤 鉄夫様
文部科学大臣 末松 信介様
文化庁長官  都倉 俊一様
東京都知事  小池百合子様
東京都教育委員会教育長 浜 佳葉子様
港区長    武井 雅昭様
港区教育委員会教育長  浦田 幹男様
東日本旅客鉄道株式会社 代表取締役社長 深澤 祐二様
この他、東京都議会および港区議会の各政党・会派にも送付しました。

2022年07月02日

「大社基地遺跡群主滑走路」南側における市道予定地の保存について(要望)

                                 2022年6月23日
出雲市長 飯 塚 俊 之 様
                              文化財保存全国協議会
                                代表委員 小笠原好彦
                                代表委員 橋本 博文

   「大社基地遺跡群主滑走路」南側における市道予定地の保存について(要望)

「大社基地遺跡群主滑走路」の保存と活用について、昨年4月に貴職へ要望しましたが、文化財としての認定を拒み続け、民間企業による開発行為を優先し、開発区域全面に対する記録保存すら放棄する姿勢に憤りと落胆を憶えているところです。
 しかるに、本年3月9日付け地元学術3団体の要請に対する回答文書で貴職が表明された「滑走路跡の一部を『歴史学習を行う場所』として残し、活用したいと考えています」、「さらに大社基地関連施設群の全体像を明らかにするため、今後総合調査を計画的に行い基礎資料とする考えです」、「後世に戦争の記録と記憶を残していくため、関係機関と連携を図りながら、市の方針に沿った出来る限りの取組を行ってまいります」との今後の取り組み姿勢については、一定の評価に値すると考え、有言実行を期待しているところです。
 私たちは、このような貴職の見解を踏まえ、「主滑走路跡」の開発進行地に沿って遺されている滑走路跡を中心とする大社基地遺跡群の現状保存のための適切な措置と、将来の活用にむけた施策を強く要望いたします。

        記

1、「大社基地遺跡群主滑走路跡」南側の市道予定地を、「大社基地遺跡群」の中心施設である「主滑走路跡」の原状を留めた貴重な文化財として認定し、保存すること。
2、 その際、出雲市文化財保護審議会をはじめ、地元島根県の関連学会、全国の各分野の専門家の意見を聴き、これを尊重すること。

2022年07月02日

ロシアのウクライナへの侵略に抗議し、即時撤退と文化遺産の保護を求める声明

【声明】ロシアのウクライナへの侵略に抗議し、即時撤退と文化遺産の保護を求めます

 ロシア・プーチン政権は2月24日にウクライナへ軍事侵攻し、首都キーウをはじめウクライナ各地で、侵略戦争を開始しました。いかなる理由があろうとも、他国に侵攻し主権を踏みにじる行為は正当化されません。武力による他国への攻撃は、国際法にも国連憲章にも反します。民間人は狙わないとしながら、ミサイルによる無差別攻撃によって、子供を含む多くの市民の生活や生命が危機に瀕し、奪われています。また、ウクライナ市民の家や学校、病院までもが攻撃され、町は破壊し尽くされています。さらに自国から国外へ逃れた数百万人を超える多くの避難民は、家族が引き裂かれ、言葉の通じない他国での生活を余儀なくされています。そして、長い歴史の中で受け継がれてきた、ウクライナの人々の誇りであるキーウをはじめとする各地の文化遺産にも破壊が及んでいます。このような歴史の流れを断ち切り、他国民の生命ばかりか心の財産までをも奪う行為はジェノサイドそのもので、断じて許せません。
 我が国の新聞報道等によると、ユネスコは4月1日に、ロシアが侵攻したウクライナにおいて、これまで教会や歴史建築など少なくとも53の文化遺産などに全壊や一部損壊の被害があったことを明らかにしました。被害は宗教施設29、歴史的建造物16、美術・博物館4、記念碑4に及び、7つの世界遺産(文化遺産6、自然遺産1)での被害は確認されていないものの、今後の攻撃による世界遺産を含む文化遺産損壊の危険性に懸念を強めています。
 私たちは、このようなロシア・プーチン政権によるウクライナへの侵略行為に断固抗議し、ウクライナからの即時撤退と平和的手段による問題解決および文化遺産の保護を強く求めます。

                             2022年4月22日

                          文化財保存全国協議会
                            代表委員  小笠原好彦
                                  橋本 博文

2022年04月24日

大阪府島本町、越谷遺跡御所池園地状遺構の緊急調査と、水無瀬離宮を中心とした島本町の文化遺産保護と活用を求める要望書

                                 2022年3月2日
島本町長  山田絋平 様
大阪府知事 吉村洋文 様
大阪府教育委員会教育長 橋本正司 様
阪急阪神不動産株式会社 代表取締役社長 諸冨隆一 様
株式会社フジタ 代表取締役社長 奥村洋治 様

                       環境・歴史・景観しまもと 代表 厚東 隆
                       文化財保存全国協議会
                            代表委員 小笠原好彦 橋本博文

   大阪府島本町、越谷遺跡御所池園地状遺構の緊急調査と、水無瀬離宮を中心とした
   島本町の文化遺産保護と活用を求める要望書

 大阪府三島郡島本町は、藤原定家の『明月記』によると、後鳥羽上皇がこの地に水無瀬離宮を造営し、頻繁に訪れていると記されています。水無瀬離宮は一か所ではなく町の広範囲にわたって存在したことが、以前から研究者によって指摘されています。
 2014年、小野薬品新社屋建設に伴う発掘調査で、西浦門前遺跡が発見されました。これは、現在の水無瀬神宮の場所にあった水無瀬離宮本御所が1216年に洪水により倒壊し、翌年に再建された御所のうち、後鳥羽上皇が地形を生かして造営した山上の御所の一部と考えられています。
 さらに2020年、JR島本駅西側の開発に伴い、室町時代から田畑として利用されていた13ヘクタールの開発が始まり、同年9月、この地区の尾山遺跡から拳大の青い石を敷き詰めた池泉跡が発掘されました。他に類を見ないと専門家も目を見張る見事な遺構で、先に発見された西浦門前遺跡と意匠の面でも共通点があり、関連した施設とも考えられ、その美しさや使われ方で高い注目を浴び、10月3日の現地説明会には多くの見学者が訪れました。しかし、すぐに破壊され、その場所には地下式の調整池が造られてしまいました。
 その後2021年3月末、中国に渡り三蔵法師の弟子となった道昭が造営した可能性のある貴重な7世紀末の瓦窯跡の一部が発見されました。しかし、現地説明会や保全協議を図る措置もとられず、町民に知らせることもなく4月半ばにこれも破壊されました。
 2021年9月28日、日本庭園学会会長大澤伸啓氏他が「水無瀬離宮を活用した地域づくりへ緊急提言」を提出するため来町されました。この提言内容は、以下の通りです。
 JR島本駅西側、桜井地区に越谷遺跡が位置します。この越谷遺跡の御所池南側開発区域には岬状の州浜と考えられる地形が遺っており、「水無瀬離宮の園池跡」の可能性が以前より指摘されていました。さらに御所池と州浜のある池跡が元は一体であること、後鳥羽上皇の時代に再整備された可能性があること、その形は鎌倉幕府三代将軍源実朝の造営した鎌倉市の伝大慈寺池跡と相似形であることなどから、実朝と後鳥羽上皇との交流を示す遺跡である可能性があることがわかってきました。そのような事実を解明する前に、池跡が消滅の危機にあるため緊急発掘調査を要求されたものです。そして町内にある水無瀬離宮関連遺跡の保全とそれらを活用した地域づくりを求め、学会が全面的に協力するという内容でした。
 御所池からは淀川の対岸に、国宝石清水八幡宮を有する男山が見えます。池の近くには平安時代後期から鎌倉時代の女流歌人で石清水八幡宮護国寺別当・光清の娘の待つ宵小侍従の墓があり、石清水八幡宮との深い関係を偲ばせます。
 中秋の名月の時、男山から昇る月が御所池に映りながら一夜移動する光景は、平安、鎌倉時代の貴族たちを楽しませたことでしょう。その光景を今でも見ることができる希少な場所がここには残っているのです。
 名神高速道路より山側にも六条殿という地名が残っており、後鳥羽上皇皇子の雅成親王の別荘であった可能性もあり、一帯は地形を生かした平安から鎌倉時代の貴族皇族たちの別荘を有する庭園都市ともいうべき場所であります。
 その面影がいまだ残っている希少なこれらの場所は、文化的景観として、島本町のみならず、未来をになう子どもたちや世界中の人々に見て頂けるよう、日本の宝として後世に残す責任が私たちにはあると思っています。

 そのうえで、私たちは以下の3点を強く要望いたします。
1,御所池南側の州浜と考えられる場所である、越谷遺跡御所池園池状遺構は、現存する唯一の後鳥羽上皇が造った池跡である可能性があります。開発のために破壊される前に早急に本調査を実施してください。
2,水無瀬離宮関連遺跡を島本町の誇るべき文化遺産としてまちづくりに活用するとともに、開発においてはその点を評価したうえで計画し、事前調査と可能な限り遺跡の保存に努めてください。
3,島本町にかろうじて残る景観は、当地の歴史的特性が生み出した文化的景観であると考えます。この文化的景観と遺跡をともに保全できるように努めてください。

 

 

                                  2022年3月2日
文化庁長官 都倉俊一 様

                      環境・歴史・景観しまもと 代表 厚東 隆

   大阪府島本町、越谷遺跡御所池園地状遺構の緊急調査と、水無瀬離宮を中心とした
   島本町の文化遺産保護と活用を求める要望書

 大阪府三島郡島本町は、藤原定家の『明月記』によると、後鳥羽上皇がこの地に水無瀬離宮を造営し、頻繁に訪れていると記されています。水無瀬離宮は一か所ではなく町の広範囲にわたって存在したことが、以前から研究者によって指摘されています。
 2014年、小野薬品新社屋建設に伴う発掘調査で、西浦門前遺跡が発見されました。これは、現在の水無瀬神宮の場所にあった水無瀬離宮本御所が1216年に洪水により倒壊し、翌年に再建された御所のうち、後鳥羽上皇が地形を生かして造営した山上の御所の一部と考えられています。
 さらに2020年、JR島本駅西側の開発に伴い、室町時代から田畑として利用されていた13ヘクタールの開発が始まり、同年9月、この地区の尾山遺跡から拳大の青い石を敷き詰めた池泉跡が発掘されました。他に類を見ないと専門家も目を見張る見事な遺構で、先に発見された西浦門前遺跡と意匠の面でも共通点があり、関連した施設とも考えられ、その美しさや使われ方で高い注目を浴び、10月3日の現地説明会には多くの見学者が訪れました。しかし、すぐに破壊され、その場所には地下式の調整池が造られてしまいました。
 その後2021年3月末、中国に渡り三蔵法師の弟子となった道昭が造営した可能性のある貴重な7世紀末の瓦窯跡の一部が発見されました。しかし、現地説明会や保全協議を図る措置もとられず、町民に知らせることもなく4月半ばにこれも破壊されました。
 2021年9月28日、日本庭園学会会長大澤伸啓氏他が「水無瀬離宮を活用した地域づくりへ緊急提言」を提出するため来町されました。この提言内容は、以下の通りです。
 JR島本駅西側、桜井地区に越谷遺跡が位置します。この越谷遺跡の御所池南側開発区域には岬状の州浜と考えられる地形が遺っており、「水無瀬離宮の園池跡」の可能性が以前より指摘されていました。さらに御所池と州浜のある池跡が元は一体であること、後鳥羽上皇の時代に再整備された可能性があること、その形は鎌倉幕府三代将軍源実朝の造営した鎌倉市の伝大慈寺池跡と相似形であることなどから、実朝と後鳥羽上皇との交流を示す遺跡である可能性があることがわかってきました。そのような事実を解明する前に、池跡が消滅の危機にあるため緊急発掘調査を要求されたものです。そして町内にある水無瀬離宮関連遺跡の保全とそれらを活用した地域づくりを求め、学会が全面的に協力するという内容でした。
 御所池からは淀川の対岸に、国宝石清水八幡宮を有する男山が見えます。池の近くには平安時代後期から鎌倉時代の女流歌人で石清水八幡宮護国寺別当・光清の娘の待つ宵小侍従の墓があり、石清水八幡宮との深い関係を偲ばせます。
 中秋の名月の時、男山から昇る月が御所池に映りながら一夜移動する光景は、平安、鎌倉時代の貴族たちを楽しませたことでしょう。その光景を今でも見ることができる希少な場所がここには残っているのです。
 名神高速道路より山側にも六条殿という地名が残っており、後鳥羽上皇皇子の雅成親王の別荘であった可能性もあり、一帯は地形を生かした平安から鎌倉時代の貴族皇族たちの別荘を有する庭園都市ともいうべき場所であります。
 その面影がいまだ残っている希少なこれらの場所は、文化的景観として、島本町のみならず、未来をになう子どもたちや世界中の人々に見て頂けるよう、日本の宝として後世に残す責任が私たちにはあると思っています。
 私たちは何回も島本町や開発業者、大阪府に働きかけておりますが、文化庁からも指導していただきたく、以下の3点を強く要望いたします。

1,御所池南側の州浜と考えられる場所である、越谷遺跡御所池園池状遺構は、現存する唯一の後鳥羽上皇が造った池跡である可能性があります。開発のために破壊される前に早急に本調査を実施するよう、島本町と開発業者に指導してください。
2,島本町の広域に広がる水無瀬離宮を中心とした一連の歴史遺産は、町だけでなく日本の歴史財産です。人口3万2千人の町だけでは、この歴史遺産を保存し、歴史公園として整備・活用していくうえで多くの困難があります。しかるべき学術調査と遺産の保全と活用ができるよう島本町と大阪府にご指導ください。どうか国のお力をお貸しください。
3,島本町にかろうじて残る景観は、当地の歴史的特性が生み出した文化的景観であると考えます。この文化的景観と遺跡をともに保全できるよう、ご指導ください。

2022年03月12日

奈良市菅原遺跡の現地保存を求める要望書

                               2021年5月24日
文化庁長官 都倉俊一 様
奈良県知事 荒井正吾 様
奈良市長  仲川げん 様
奈良市教育委員会教育長 北谷雅人 様
三都住建株式会社 代表取締役 五十嵐直秀 様
                             文化財保存全国協議会
                               代表委員 小笠原好彦
                               代表委員 橋本博文
                             奈良歴史遺産市民ネットワーク
                               事務局長 小宮みち江

   奈良市菅原遺跡の現地保存を求める要望書

 特別史跡・平城宮跡の朱雀門を出て、目の前の二条大路を東へ向かえば東大寺があり、西へ向かえば東大寺の大仏建立を指揮した行基(668-749)ゆかりの喜光寺(菅原寺)があります。その喜光寺を見下ろす西側の丘陵上にあるのが菅原遺跡(奈良市疋田町)です。1981年の奈良大学による発掘調査で、「仏堂」とみられる建物の基壇が見つかっており、奈良時代の寺院跡であることが知られていました。
 2020年12月にはこの遺跡で、大規模な回廊に囲まれた中心建物跡が発見されました。2021年5月20日付けで発表された報道資料等によりますと、これは柱穴が円形にめぐる類例のないもので、多宝塔や八角円堂のような円堂建築と考えられることから、供養塔として使われていた建物とみられます。みつかった瓦や土器の年代から、8世紀半ば頃の創建とみられます。また、この遺跡は、菅原寺の西の岡にあったと『行基年譜』の最後に記す「長岡院」に比定されています。そうするとこの円堂は、大仏開眼の3年前、82歳で亡くなった行基に対する廟もしくは供養塔として建立された可能性があります。この円堂跡に立つと、東にむかって二条大路がまっすぐ延び、そのむこうに東大寺大仏殿の甍、若草山・春日山の山並みがよく見えます。名僧・行基を偲ぶ供養塔としてふさわしい景観といえます。
 このように、考古学的にも優れた調査成果が得られたことに加え、行基という歴史的人物を物語る重要遺跡であることが確実となった菅原遺跡は、国史跡に相当する価値を有していると評価されます。
 ところが、開発業者と奈良県当局による協議の結果、住宅開発のための「記録保存」をおこなった後、市民に現地公開されることもなく、破壊される運命にあるとも報道されています。私たちは文化財保護の立場から、現状を容認することはできません。上述した遺跡の重要性を十分に勘案したうえで、その価値を末永く後世に伝えるため、まずは住宅地内の緑地として現地保存し、将来的には、市民の誇るべき遺産として整備・活用されるべきと考えます。そのうえで、次の2点を強く要望するものです。

1、菅原遺跡の回廊及び中心建物をできる限り現地保存し、これ以上破壊が進行しないようにすること。
2、菅原遺跡の現地保存を前提として、住宅開発と調和的な遺跡の整備・活用をはかること。

2021年05月24日

安芸市瓜尻遺跡の保存と活用を求める要望書

                                 2021年5月23日
文化庁長官 都倉俊一 様
高知県知事 濵田省司 様
高知県教育委員会教育長 伊藤博明 様
高知県議会議長 森田英二 様
安芸市長 横山幾夫 様
安芸市教育委員会教育長 藤田剛志 様
安芸市議会議長 尾原進一 様
                              文化財保存全国協議会  
                                  代表 小笠原好彦
                                  代表 橋本 博文

   安芸市瓜尻遺跡の保存と活用を求める要望書

 安芸市瓜尻遺跡は、7世紀代の中央政権による地方経営の実態を解明するうえで、その遺構を良好に遺している全国的にも数少ない貴重な古代遺跡です。
 発掘調査によってみつかった掘立柱建物跡、総柱建物跡や円面硯、刀子からは倉庫群を含む官衙的性格が、また方形区画とその内側に巡る柱穴列に囲まれた井戸跡と建物跡からは「聖なる空間」での国家的祭祀の執行が窺えます。また、交通の往来を示す運河跡や入り江状の波止場跡、それに西側未調査区に推定される寺院跡をあわせると、仏教伝来や国家的祭祀の執行、官衙の設置など、大化改新(645年)、白村江の戦い(663年)、壬申の乱(672年)といった教科書にある7世紀代の歴史的な出来事が反映された遺跡だと考えられます。
 これらにはこの地域が古代国家に組み込まれていった様相が示されており、その具体的歴史像が安芸平野の瓜尻遺跡において確認されたことは、古代国家形成過程を追究するうえで極めて重要で、学術的に高く評価できます。また、このような寺院跡、祭祀跡、運河・波止場跡、官衙跡といった複数の要素で一体的に構成される7世紀代の遺跡は、高知県内はもとより、全国的にも例がなく、その希少性も積極的に評価すべきです。そして、これらの評価に基づいて、高知県および安芸市当局は、瓜尻遺跡を県民・市民の宝として恒久的に保存し、その価値を高めるために活用する責任があると考えます。
 この遺跡は津波災害を想定した中学校移転を目的に発掘調査をはじめたと側聞しています。しかし、調査によって検出された遺構の遺存状態が極めて良好なことがわかりました。このように遺存状態が良く、他に例がない貴重な遺構を破壊して校舎建設用地とするよりは、現状保存し、未来を担う子どもたちの身近な歴史教材として、また地域の皆さんに末永く愛される史跡公園として隣接する寺院跡を含めての整備・活用が望まれます。さらに瓜尻遺跡を広く人類共有の文化遺産として捉え、観光資源として活用することも将来にわたる地域経済活性化の活力として期待されるところです。その意味で災害回避と文化遺産保存との両立を目指した、全国に先駆けた模範となる判断と取り組みが期待されます。
 このように瓜尻遺跡は、7世紀代の地方における古代国家形成期の具体的様相を示す遺構群が良好に遺された重要かつ希少な遺跡であり、特に重要な遺構群の現状保存によって地域での歴史学習や、観光資源としての活用が待望される文化遺産です。貴機関におかれましては、まずはこのような瓜尻遺跡の調査成果を正しく認識し尊重したうえで、史跡指定など、現状保存のための適切な措置と、将来を見据えた活用施策を採られますよう、強く要望いたします。
                                    以上

2021年05月23日

高輪築堤跡の全面保存を求める声明

                                  2021年4月30日
  高輪築堤跡の全面保存を求める声明

                              文化財保存全国協議会  
                                代表委員 小笠原好彦
                                     橋本 博文

 東日本旅客鉄道会社(以下 JR 東日本)の「品川開発プロジェクト」 にともなう事前の発掘調査によって明らかになった高輪築堤跡について、私たち文化財保存全国協議会は、日本歴史学協会による「『高輪築堤』の保存を求める要望書」に賛同団体として参加し、その全面保存を求めているところです。同要望書では、日本近代史を象徴する貴重な歴史遺産として高く評価し、現地保存と国史跡指定を求めています。また、2月に現地を視察した萩生田光一文部科学大臣も「明治期の近代化を体感できる素晴らしい文化遺産」であると述べ、開発と保存の両立を求めています。
 しかし、その後の4月10日に、発掘調査が進む4街区において日本初の鉄道信号機跡などをも含む新たな成果が限定的に公開されたものの、4月21日には公園隣接地及び「第7橋梁」を含む一部の遺構の現地保存、「鉄道信号機跡」の移築保存、それ以外の遺構は記録保存とする見解が、JR 東日本によって示されました。
 この間、日本考古学協会会長による度重なる声明の発出など、ことの推移を注視してきましたが、4月21日にJR 東日本が示した見解は、高輪築堤跡の歴史的評価を認めつつも、1000m以上に及ぶ発掘調査対象範囲のうち1割にも満たない、わずか120mの現地保存との結論であり、日本の近代化を象徴する文化遺産の大半が破壊されようとしている事態を看過することはできません。とりわけ築堤跡と一体的に存在する「鉄道信号機跡」の移築保存は、遺構の破壊を前提とする方針であり、歴史的景観を無視した愚行と言わざるを得ません。
 文化財保存全国協議会は、日本国有鉄道(「国鉄」)からの自らのルーツ、ひいては日本鉄道史を軽視するJR 東日本の認識や態度に強く抗議するとともに、遺構の破壊を前提とした計画の撤回を強く要望します。
 また、これまでの発掘調査成果とともに4街区の調査成果を広く公開し、高輪築堤跡全体の保存と活用に向けた取り組みを改めて求めます。

2021年04月30日

大社基地遺跡群の保存および活用を求める要望書

                                  2021年4月20日
文化庁長官 都倉俊一 様
島根県知事 丸山達也 様
島根県教育委員会教育長 新田英夫 様
島根県議会議長 中村芳信 様
出雲市長 長岡秀人 様
出雲市教育委員会教育長 杉谷学 様
                               文化財保存全国協議会
                                  代表 小笠原好彦
                                  代表 橋本 博文

   大社基地遺跡群の保存および活用を求める要望書

 島根県出雲市の大社基地遺跡群は、アジア・太平洋戦争当時の海軍航空基地として、その遺構を良好に遺している全国的にも数少ない貴重な戦争遺跡です。大社基地遺跡群には、現在でも主滑走路のおよそ半分が往時の姿で遺存するほか、その周辺に配備された爆撃機「銀河」の掩体壕、爆弾や魚雷を格納した地下壕、兵舎跡、対空機銃陣地跡、基地設営隊本部が置かれた旧出西国民学校校舎などが遺されています。また大社基地の造営を担った舞鶴海軍鎮守府所属第 338 設営隊の戦時日誌には、特攻兵器である「桜花」の格納庫を設けるなど、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦に備えた西日本最大の軍事拠点となっていた姿が記されています。
 このように、大社基地遺跡群は、主滑走路と附属施設が建設当時の原状をよく留めた大規模な海軍航空基地であり、あわせて関連する史資料が豊富なことから、戦争遺跡として全体像の把握が可能な全国的にも稀な貴重な文化財と評価できます。特に、幅60m、長さ1500mに及ぶコンクリート製の主滑走路遺構は、兵庫県加西市の海軍鶉野飛行場跡の規模を上回り、敗戦後 75 年を経た今日において他に類を見ないものです。そして、その主滑走路や掩体壕などの遺構が地域住民により学校教育、社会教育で活用され、戦争の実態や雰囲気を伝える体験的平和学習の場として寄与しています。
 しかし、大社基地遺跡群の主要構成遺構である主滑走路の大部分が民間に売却され、落札者が確定したとの報道に接しました。また4月初めには、主滑走路の一部で現状変更がはじまったとの知らせもありました。戦争遺跡として全国的にも稀有な存在で、島根県を代表する貴重な文化財であり、すでに平和学習に資しているにもかかわらず、その中心的な遺構が失われることを私たちは強く危惧します。むしろ、これらの遺跡群の総合的な学術調査に基づいた一体的な保全と活用が将来に向けて望まれます。とりわけ、特攻兵器「桜花」配備に関連する歴史的背景やそれを裏付ける遺構の確認など、史資料を駆使した学術的なアジア・太平洋戦争末期の海軍基地の実態把握は、本土決戦に備えた基地の役割や作戦の在り方を鮮明にし、より具体的な戦争の実相とそれに巻き込まれた民衆の実像に迫りうるもので、全国的にも例のない平和学習への更なる寄与が期待できます。
 もとより島根県は「島根県文化財保存活用大綱」を策定しており、本遺跡群についても大綱で謳う基本理念や取り組みに則った保存活用が望まれます。
 大社基地遺跡群は、アジア・太平洋戦争末期の海軍航空基地に関わる建物や遺構を多く遺し、地域での平和学習にも活用されている全国的にも希少な文化財です。貴機関におかれましては、まずはこのような現状を認識し尊重しつつ、主滑走路を中心とする本遺跡群の史跡指定など、現状保存のための適切な措置と将来の活用にむけた施策をとられますよう、私たちは強く要望いたします。
                                      以上

2021年04月20日

太田市立藪塚本町歴史民俗資料館の存続に関する要望

                              2021年3月22日
太田市長    清水聖義様
太田市教育長  恩田由之様
太田市議会議長 久保田俊様

                           文化財保存全国協議会
                             代表委員 小笠原好彦
                             同    橋本 博文

   太田市立藪塚本町歴史民俗資料館の存続に関する要望

 御地太田市は、東日本最大の前方後円墳、太田天神山古墳や単独の埴輪では唯一の国宝、太田市飯塚出土挂甲武人埴輪(東京国立博物館所蔵)、北関東の古墳時代前期の指標となる石田川遺跡出土土器群など、国内外に誇る埋蔵文化財を多く有することで知られています。その貴市では、当然あってしかるべき考古学系の博物館として市町村合併前の個人寄贈の藪塚本町歴史民俗資料館のみを受け継いできました。
 ところが、このたび施設の老朽化や障がい者に利用しづらいこと、新型コロナ禍での歳入減が心配される財政事情の中での来館者増が見込めないことを理由に、ごく限られた地元(旧薮塚本町でも『湯之入』・『三島』地区)の区民のみに一方的に資料館の閉館のおしらせを回覧させました。それに危機感をもった地元、東毛考古学サークルはにわの会では、資料館の存続を願う要望・陳情書を2021年1月21日付けで貴職宛に提出しました。その中で、廃館の撤回と太田市文化財保護審議会が閉館と決した議事録の公開、市民のパブリックコメントを募集することなどを要望しています。
 その後、マスコミでは地元紙、上毛新聞が同年2月10日付け朝刊で「郷土史伝える場廃館」「地元団体見直し訴え」の見出しで報道し、朝日新聞も同月26日付け群馬版で「太田歴史民俗資料館利用低迷で廃館方針―考古学者ら「待った」」の見出しで報じました。そこには、市側からの回答にある廃館後の資料の、近世尊皇攘夷思想家を顕彰する施設、高山彦九郎記念館への移転・間借り展示への批判が掲載されています。
 一方、これらマスコミの報道を受けた県民・市民は敏感に反応し、地元紙、上毛新聞の3月2日付けの「待ってほしい歴史資料館廃止」や同紙3月6日付けの「藪塚の資料館廃館を憂う」などという館の存続を願う声を寄せています。
 それに続く上毛新聞3月9日付けでは「市議会委員会で廃館の経緯報告」と題して、市議会市民文教委員会協議会で「パブリックコメント」を実施すべきだという委員の意見に対して、市は「今回は廃館の報道後も反論の声が出ていない」と述べ、実施しないとしたと報じています。
 以上の一連の経緯は、行政が市民の声を無視し、黙殺しているとしか言いようがありません。そもそも合併後、太田市は当館の改修などにお金を掛けず、バリアフリーや入館者増のための取り組みを怠り、努力義務を果たしていません。
 そこで以下、別紙資料を添えて要望します。
1.資料館の廃館を見直し、存続を図ること。
2.施設を利用し易くするための改修を図ること。
3.名称を全市的な施設として「太田市考古・民俗資料館」とすること。
4.今後の運営のため、識者に地元小中学校関係者、PTA、マスコミ関係者、観光関係者、市民(公募を含む)などを加えた運営協議会を組織すること。
5.館活動の活性化のため市民ボランティアの制度を導入すること。
 今後、当館が文化の発信、学び、観光の拠点として、地域に誇り・夢・活気を与える施設として発展することを切望します。

2021年03月22日

「高輪築堤」の保存を求める要望書

  「高輪築堤」の保存を求める要望書

関係機関各位

 東京都港区における東日本旅客鉄道会社(以下JR東日本)の「品川開発プロジェクト」にともなう発掘調査によつて、1872年(明治5)に開業した日本最初の鉄道の遣構である「高輪築堤」が発見されたという情報は、全国的に大きなインパクトをもって伝えられました。

 遺構の保存等については、発見時に所在地にあたる港区教育委員会がその重要性に基づき、事業者であるJR東日本に対して現状保存を要請したと伺っております。その後、有識者と関係者による「調査保存等検討委員会」が立ち上がり、保存をめぐり様々な議論が交わされているとも聞き及んでおります。それに並行して、産業遺産学会、日本考古学協会(埋蔵文化財保護対策委員会)が遺構の保存を求める要望書を提出し、別途、鉄道史学会・都市史学会・首都圏形成史研究会・地方史研究協議会・交通史学会も連名で、遺構の保存や公開を求める要望書を提出するという状況となっています。このような諸学会の動向からも、「高輪築堤」の保存を願う声は日増しに広がってきていることがわかります。

 わが国の歴史学系学会の連合組織である日本歴史学協会は、諸学会のこうした要望を全面的に支持することを表明するとともに、新たに、賛同学会と連名で「高輪築堤」の保存を求める要望書を出すことにしました。
 まず、「高輪築堤」の歴史的評価については、日本の近代化を牽引した創業期の鉄道の姿を目の当たりにすることができる貴重な遣構であること、産業史・鉄道史・交通史などの分野に留まらず、日本近代史を象徴する、重要な歴史遺産であるということに異論はないものと思われます。工学・技術史的な側面では、イギリス人技師の指導による西洋の鉄道建築の技術に、日本で受け継がれてきた手法が融合した、ハイブリットな構造物であるという特徴が認められます。とくに、第7橋梁部と周辺の水路跡については、その希少性に加えて、保存状況の良好さも評価されており、遺構全体の中でも重要な部分に位置づけられています。このような学術的価値の高さという点から判断すると、「高輪築堤」の現状保存を確実に行い、すみやかに国史跡の指定にむけた対応を取る必要があります。

 「高輪築堤」に対する注目は非常に高く、遺構の行く末や、保存の対応の方向性次第によっては、大きな反響が巻き起こることも予想されます。わたしたちは、「高輪築堤」遺構の保存・活用と地域開発との共存が、関係当事者間での協議や調整によつて解決され、現実となることを願い、以下の点を要望いたします。

 (1)開発プロジェクトの事業主体であるJR東日本に対しては、国有財産を日本国有鉄道から継承した事業者としての立場から、「高輪築堤」遺構が国民共有の重要な財産であることを十分に認識すること

 (2)「高輪築堤」が、場所性と高く結びついた文化財である「史跡」としての価値が十分認められる点を考慮し、移設保存の方針を改め現地保存すること

 (3)国史跡の指定に向け、国・都・港区などの関係者との協議や調整などの対応を図ること

 なお、「高輪築堤」は、1996年(平成8)に国史跡に追加指定された新橋横浜間鉄道の遺構である「旧新橋停車場跡」の延長線上にあり、新橋停車場と価値を同じくする貴重な遣構です。そのため、今後は「旧新橋停車場跡」とあわせた保存・活用を行う必要が生じることが想定されます。「旧新橋停車場跡」の国史跡への追加手続きに際しては、所有者であるJR東日本がその文化財的価値を認め、必要な手続きに入り、国史跡に追加指定されています。 JR東日本は「高輪築堤」に関しても、「旧新橋停車場跡」と同様の判断と保護措置を取るよう強く要望します。
 もちろん、期限の定まった開発事業を進めていく中での緊急対応となれば、苦慮する場面も多々あるものと推察いたします。その中での、遺構の保存を前提とする、設計変更も含めた開発事業の見直しという判断は、後年、文化財の保存・活用と開発を両立させた事例として大きく評価されるものになるのではないかと考えます。英断を求めます。

 すでに、本年2月16日には、萩生田光一文部科学大臣が現地を視察し、「高輪築堤」を「明治期の近代化を体感できる素晴らしい文化遺産」であると述べ、都市開発の現状に一定の理解を示しながらも、遺構の現地保存との両立を前提とする、国史跡指定の方向性と国の支援に言及しています。この大臣発言は、非常に重要であり、国による「高輪築堤」遺構に対する方針の提示と今後の対応策を示したものと理解いたします。
 万一、交渉が途切れ、歴史上重要な「高輪築堤」が取り除かれるというような事態を招けば、文化財保護行政上の大きな失点にもなりかねません。関連する文部科学省・国土交通省・文化庁、東京都、港区に対しては、「高輪築堤」が有している文化財(史跡)としての本質的価値の高さと、保存の必要性、保護の緊急性という視点から、国史跡の指定にむけて、事業者への助言・調整などを継続的かつ積極的に進めていくことを要望いたします。

2021年2月26日

日本歴史学協会

秋田近代史研究会
大阪歴史学会
関東近世史研究会
京都民科歴史部会
交通史学会
専修大学歴史学会
総合女性史学会
地方史研究協議会
中央史学会
東京歴史科学研究会委員会
東北史学会
奈良歴史研究会
日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会
日本史研究会
日本風俗史学会
文化財保存全国協議会
宮城歴史科学研究会
明治大学駿台史学会
歴史科学協議会
歴史学研究会

2021年02月26日

鳥取県米子市百塚88号墳の保存を求める要望書

 文全協は12月9日付けで、鳥取県米子市百塚88号墳の保存を求める要望書を関係機関に提出しました。百塚88号墳は、横穴式石室を有する全長26mの前方後円墳です。産業廃棄物最終処分場の建設にともない発掘調査されましたが、「記録保存」の名のもとに破壊される運命にあります。
 文全協はこの古墳の保存を求めます。残せる古墳、残すべき古墳です。ご支援、ご協力をお願いします。
                                                                               2020年12月9日
文化庁長官 宮田亮平様
鳥取県知事 平井伸治様
米子市長 伊木隆司様
                               文化財保存全国協議会
                                 代表委員 小笠原好彦
                                     橋本 博文

   鳥取県米子市百塚88号墳の保存を求める要望書

 鳥取県米子市淀江町小波地内に所在する百塚古墳群は、総数122基からなる大型の古墳群であり、弥生時代から奈良時代にいたる集落遺跡である百塚遺跡群とともに、淀江平野の貴重な歴史遺産です。また、国内最大級の弥生時代集落であり、古墳時代につながる墳墓が営まれた国史跡・妻木晩田遺跡にも近く、妻木晩田遺跡の後の淀江平野周辺の歴史の動向を考えるうえで注目される古墳群です。
 なかでも百塚88号墳は、古墳群内に現存する唯一の前方後円墳(全長26m)です。2020年6月からは、産業廃棄物最終処分場の建設工事に伴う発掘調査が実施され、古墳時代後期後半(6世紀後半)に位置づけられる横穴式石室・石棺と、鳥形の装飾をもつ須恵器がみつかっています。また、その墳丘には、全国的にも珍しく、妻木晩田遺跡で確認されたものと共通性の高い「土のう積み」の工法が確認でき、古墳の築造過程を知るうえでも貴重な成果が得られています。
 この古墳について、鳥取県および米子市当局は、10年前に実施した試掘調査の結果にもとづき、当初より「記録保存」をするという方針で、このたびの発掘調査を実施し、すでに墳丘の一部を削平し、横穴式石室・石棺は解体され、発掘調査も終了しています。そして、墳丘が残存した状態で、開発業者に引き渡すとのことです。
 しかし、この産業廃棄物最終処分場建設計画は、昨年秋に鳥取県知事が地下水への影響についての再調査を命じ、「調査の結果次第では、計画を白紙に戻す可能性がある」と定例記者会見で発言しています。そして、その調査結果がでるのは、来年の秋ということです。すなわち、本古墳にかかわる開発事業の実施がいまだ正式決定していない今の段階で、「記録保存」のための発掘調査がおこなわれたことは、文化財保護行政のあり方として、きわめて不適切であり、遺憾な判断であったと言わざるを得ません。加えて、今回の発掘調査によって、土のう積み工法という新たな知見が得られたことをふまえ、「記録保存」という方針は、見直されるべきものと考えます。
そのため、私たちは次の2点を強く要望いたします。

1.すみやかに現存する古墳の墳丘の保護措置をおこなったうえで、すくなくとも事業計画が正式決定するまでの間、古墳の保存・活用を視野にいれた協議をおこなうこと

2.文化財保護の原点に立ち戻り、地域の特質を物語る古墳の保護・活用をはかること

2020年12月09日

日本学術会議の新会員候補6名の速やかな任命を求めます。

 文全協常任委員会は、12月5日付けで標記の声明発表を決め、菅内閣総理大臣に声明文を送付しました。任命が見送られた日本学術会議の新会員候補6名の速やかな任命を求めます。
 なお、2020年11月6日には、国内の220余りの人文・社会科学系の学会が、任命見送りの理由の説明や6名の任命を求める共同声明を発表しています。

   日本学術会議の新会員候補6名の速やかな任命を求めます。
 
 文化財保存全国協議会(文全協)は、日本に残されている豊かな文化財を守り、学び、正しく活用して後世に伝えていくことを目的に、1970年に結成された全国組織です。各地の歴史学・考古学関係の研究者、教員、市民や文化財保護関係団体などを結集し、文化財の学習・保存活動を展開しています。
 日本学術会議が25期の発足にあたり新会員候補として推薦した105名のうち6名の任命を、菅義偉内閣総理大臣は拒否しました。これに対し、日本学術会議は、直ちに任命されない理由の説明と任命されなかった6名全員の任命を要望しました。
 しかし、今に至るも、菅内閣総理大臣は「総合的、俯瞰的」に判断した、と述べるだけで、任命拒否の理由を説明されていません。
 理由の説明のない任命拒否は、日本学術会議に対する政治介入だと言わなければなりません。日本学術会議は、日本学術会議法第3条に規定されているように「独立」の機関です。日本学術会議が推薦した会員の任命拒否は、法に定められたこの独立性を破壊するものであり、ひいては日本国憲法第23条に保障された「学問の自由」を侵害する行為であると言わざるを得ません。
 日本学術会議は「学者の国会」ともいわれ、政府に対して学問研究の立場から様々な分野にわたって政策提言をおこなっています。「文化財の保護と活用」に関しても、その内部に設置された史学委員会が2014年に「文化財の次世代への確かな継承-災害を前提とした保護対策の構築をめざして-」と題する提言を発表するなど、積極的な活動を展開されています。文化財を守り、学び、正しく活用して後世に伝えていくことを活動目的にしている当会にとっても、重要な指針となっています。
 当会は、こうした観点から日本学術会議のありように強い関心を持っています。当会は、菅内閣総理大臣による日本学術会議の新会員候補の任命拒否に強く抗議するとともに、6名の会員候補の速やかな任命を求めます。

  2020年12月5日
                          文化財保存全国協議会常任委員会

2020年12月05日

日本学術会議第25期推薦会員任命拒否に関する人文・社会科学系学協会共同声明

                             2020(令和2)年11月6日
 日本学術会議第25期推薦会員任命拒否に関する 人文・社会科学系学協会共同声明

 私たち人文・社会科学分野の104学協会(内、4学会連合を含む)および115の賛同学協会(内、1学会連合を含む)は、日本学術会議が発出した2020(令和2)年10月2日付「第25期新規会員任命に関する要望書」に賛同し、下記の2点が速やかに実現されることを強く求めます。

1.日本学術会議が推薦した会員候補者が任命されない理由を説明すること。
2.日本学術会議が推薦した会員候補者のうち、任命されていない方を任命すること。

104学協会名(省略)
115賛同学協会名(省略)

 上記共同声明に、文全協は発出団体として参加します。


 文化財保存全国協議会では、すでに文全協常任委員会名で声明「日本学術会議の新会員候補6名の速やかな任命を求めます」(2020年12月5日付、『文全協ニュース』227号所収)を発表し、菅義偉内閣総理大臣宛に送付しています。
 文全協事務局では、人文・社会科学系学協会共同声明については純然たる学会の共同声明であると考え、その参加を見合わせてきました。しかし、日本考古学協会会長・考古学研究会代表連名で、「日本学術会議推薦会員任命拒否に関わる人文・社会科学系学協会共同声明への参加ご案内」(2020年12月20日付)を受け、日本考古学協会に「人文・社会科学系学協会」の性格を問い合わせました。日本考古学協会事務局には丁寧な対応をいただき、人文・社会科学系学協会連合連絡会事務局にも照会いただいた上で、共同声明への参加に問題がないことを確認しました。
 以上の経緯を踏まえ、文全協事務局では、2021年2月28日、文化財保存全国協議会として共同声明に発出団体として参加することを決定し、各常任委員に連絡して了解を得ました。 (事務局)

2020年11月06日