本会では、文化財保存運動の先駆者であった故和島誠一氏の科学的精神とその思想に深く学び、21世紀における文化財の保護、活用および普及活動の飛躍的な発展を期待して、2000年に「和島誠一賞」を制定し、広く全国で文化財の保護、活用、普及などに関連して顕著な活動をおこなった個人・団体を表彰している。
2023年4月1日に開催した選考委員会で、下記の選考委員と協力委員からの候補者推薦をもとに慎重に審議した結果、個人部門は十菱駿武氏(東京都)、出原恵三氏(高知県)を、団体部門は「広陵古文化会」(奈良県)、「富士見市資料館友の会」(埼玉県)を第24回和島誠一賞の表彰者・団体とすることに決定した。
【選考委員】小笠原好彦(選考委員長)、橋本博文、勅使河原彰、杉田義、大竹憲昭、
菊池実、和島明、神戸輝夫、澤田秀実、松田度、
【選考協力会員】今岡稔、川岡勉、木村英祐、後藤祥夫、小宮みち江、高瀬克範、
坪田幹男、松島町子、用松律夫、森田勝三
表彰者の紹介
個人部門
十菱駿武(じゅうびし しゅんぶ)氏
十菱氏は、1969年に早稲田大学を卒業し、大学院に進まれると、1970年に在学中ながら、横浜市で行われていた大規模な住宅開発である横浜市港北ニュータウン建設の事前発掘に、調査団の調査員の1人としてかかわっている。その後、1973年から10年間、世田谷区立郷土博物館の学芸員を担当し、多くの市民へ文化財の普及に尽力している。この間、文化財保存全国協議会の事務局の運営に協力し、さらに1979年からは甘粕健代表委員のもと、文全協の事務局長を8年間にわたって担当し、会員1200人を超える文全協の組織運営を担っている。そして、1985年からは山梨学院大に勤務するようになり、首都圏と山梨県の遺跡の保存運動を進めるとともに、文化財保護行政や文化財の保護法に関連することに取り組み、文化財が「真に国民共有の財産」となるように運動を進めている。そして2000年からは文全協代表委員として16年間、首都圏を中心として、遺跡の保存運動と遺跡見学会を開催し、幅広く文全協の活動を推進している。
また一方では、戦争体験者が少なくなりつつある今日、戦争の事実をとどめる「戦争遺跡」の重要性と歴史遺産として保存する意義を踏まえ、1997年の戦争遺跡保存全国ネットワーク結成に参加し、同組織の代表委員を担い、昨年まで運動を進めている。また、文全協の活動にも、戦争遺跡の保存をはかるという活動部門の幅をもたせることに寄与している。
2012年に、十菱氏は山梨学院大を退職されたが、この間に山梨県では、山梨県文化財保護委員・山梨県考古学協会委員長・NPO法人山梨水晶会議参与・伊奈石の会顧問などを歴任されている。
居住地 東京都
生年 1945年
著書 『多摩の歴史遺産を歩く』新泉社 2009年
『しらべる戦争遺跡の事典(正)(続)』(共著)柏書房 2002・03年
『戦争遺跡は語る』(共著)かもがわ出版 1999年 など
出原恵三(ではら けいぞう)氏
出原氏は、奈良大学を卒業後、高知県文化財団埋蔵文化財センターに勤務されている。高知県の田村遺跡では、高知空港の滑走路の建設にともなって1980~83年、さらに1996~2000年に滑走路拡張工事にともなって大規模に2回の発掘が実施されている。この発掘調査で、弥生時代の前期から後期に続く集落を構成する竪穴住居、環濠、水田遺構などが検出されている。この発掘調査にかかわった出原氏は、検出された田村遺跡で検出された遺構と出土した遺物から、南四国での弥生時代の展開に、これまでの理解とは異なる新たな考えを提示している。
また、1982年11月、地元の田村遺跡を保存する会による遺跡の保存運動がおこった際には、この運動を側面から支援している。その結果として、前期の遺構は滑走路脇の緑地帯の地下に保存され、また、弥生時代の水田遺構の一部を切取って残ることになった。
さらに2020年以降、安芸市の中学校舎建設に対する瓜尻遺跡の発掘では、7世紀後半の方形区画遺構・流路・掘立柱建物・井戸などが検出さている。これに対し、地域の人たちが瓜尻遺跡の望ましい保存をはかる運動が展開しており、かつて行政側にいた立場から、少しでもよい状態で遺構が残り、活用できるように支援している。
さらに、出原氏は、高知県南国市にある掩体の戦争遺跡の保存を進めるとともに、戦争遺跡保存全国ネットワークの一員として、島根県出雲市の旧海軍大社基地遺跡群などの保存を強く訴え続けている。そして、2016年から戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表を担っている。そして、戦争遺跡が市民にとって、また行政にとって、どのように重要か、また保存をはかるべきかの理念を明示して活動していることは高く評価できる。
居住地 高知県
生年 1956年
著書 『南四国から問う弥生時代像 田村遺跡』新泉社 2009年。
『弥生時代の様式と編年 四国編』(共著)木耳社
『街道の日本史 土佐と南街道』(共著)吉川弘文館
『日本の戦争遺跡』(共著)平凡社
団体部門
広陵古文化会(奈良県北葛城郡広陵町)
広陵古文化会は、1963年(昭和38)に地元の文化財愛好者30名ほどで結成された会で、広陵町にある馬見古墳群やその周辺の文化財の見学や探訪などをおこなっていた会である。ところが、1966年ごろ、この広陵町の地域に、住宅都市整備公団による団地造成計画があるのを知り、しかも、これによって多くの古墳が破壊されることを知った。そこで、この会は、1969年に奈良県文化財保存対策連絡会(奈文連)と連絡をとり、共同して馬見古墳群の保存運動に立ち上がっている。この運動は、地元会員をはじめ地域ぐるみで取り組まれ、住民の熱意と保存運動によって、住宅地内の古墳の多くが緑地公園として残り、現在に見るような、まさに古墳を主体とする歴史的な公園となっている。
一方、1975年(昭和50)には、河合町にあるナガレ山古墳の前方部が業者による土取り作業によって破壊されるという事態がおこった。これに対しても、この会が保存運動に立ち上がっている。この運動の結果、保存措置が取られるようになり、ナガレ山古墳は、1976年に国史跡に指定されている。そして、1980年代には、馬見丘陵の中央部一帯に県立馬見丘陵公園が作られるにいたっている。ナガレ山古墳も、一部が発掘調査され、それにもとづいて史跡整備されている。
今日、馬見丘陵公園は、古墳を主体としながら歴史と自然が一体となった公園となっており、多くの市民が訪れる憩いの場となっている。これには、広陵古文化会による、馬見古墳群の古墳に対する保存への熱意と運動があり、また、その後も会の活動を継続し、2012年には、発足50周年記念誌として、『ふる里の文化財を訪ねて』を刊行している。そして、さらに今日まで、この会はじつに地道に地域に根差した活動を続けている。
参考:『ふる里の文化財を訪ねて』広陵古文化会編集・発行 2012年
富士見市資料館友の会(埼玉県富士見市)
富士見市資料館友の会は、資料館の前身である富士見市立考古館が主催した講座の受講者有志によって、1983年(昭和58)に発足した組織で、今年は40周年を迎えている。
現在、富士見市には水子貝塚資料館と難波田城資料館の2館があり、このうち、水子貝塚資料館は、国指定史跡の水子貝塚公園に隣接して設けられている。水子貝塚は、1938・39年(昭和13・14)と1967年(昭和42)に、遺跡保存の先覚者である和島誠一氏らによって発掘調査され、これらの成果によって1969年(昭和44)に国史跡に指定されている遺跡である。
この考古館は、1988年(平成10)に現地に移転し、2000年(平成12)に、埼玉県指定旧跡の難波田氏館跡を整備した難波田城公園と難波田城資料館が開館し、それに合わせて水子貝塚資料館に改称している。
資料館友の会は、現在5部会からなっている。1983年の発足当初は、「土器づくり部会」と「拓本部会」の二つの部会であった。土器づくり部会は、市内出土の縄文土器をモデルとし、粘土の採集から焼成まで本格的な製作実験を行っている。拓本部会は、採拓技術を磨きながら市内の石造物の悉皆調査を長年かけて実施し、「富士見市石造物調査記録」などを刊行している。
その後、1988(昭和63)に「木綿部会」、1990年(平成2)には「竹かご部会」が加っている。木綿部会は、綿花の栽培、綿繰り、糸紡ぎ、染色、機織りまで一連の工程を、年間を通して実施し、竹かご部会は、市内在住の竹かご職人を講師として発足しており、職人の技術を継承しながら個性的な作品を仕上げている。
さらに、2002年(平成14)に「ふるさと探訪部会」も発足した。この部会は、市内の文化財を独自に調査・研究し、定期的に市民を対象とした文化財巡りをおこなっており、近年は他地域へと活動範囲を広げている。このように友の会の活動は、長年にわたって富士見市の地域の歴史や文化財について学びながら、さらに伝統的な技術を次の世代に伝えていくことふくめて活動を続けている。
こうした活動は、地域がたどった歴史や文化財を現在の市民がどのように享受し、また発展させるべきかを多くの市民や行政に示したものである。