本会では、文化財保存運動の先駆者であった故和島誠一氏の科学的精神とその思想に深く学び、21世紀における文化財の保護、活用および普及活動の飛躍的な発展を期待して、2000年に「和島誠一賞」を制定し、広く全国で文化財の保護、活用、普及などに関連して顕著な活動をおこなった個人・団体を表彰している。
2024年3月30日に開催した選考委員会で、下記の選考委員と協力委員からの候補者推薦をもとに慎重に審議した結果、個人部門は太田記代子氏氏(佐賀県)、勅使河原彰氏(埼玉県)を、団体部門は「浅川地下壕の保存をすすめる会」(東京都)、「笠置文化保存会」(愛媛県)を第25回和島誠一賞の表彰者・団体とすることに決定した。なお、「笠置文化保存会」は受賞を辞退された。
【選考委員】小笠原好彦(選考委員長)、橋本博文、和島明、杉田義、大竹憲昭、
菊池実、高柳俊暢、神戸輝夫、澤田秀実、松田度、
【選考協力会員】岡山真知子、菊地真、木村英祐、後藤祥夫、高瀬克範、坪田幹男、
松島町子、用松律夫、森田勝三、吉田広
表彰者の紹介
個人部門
太田記代子(おおた きよこ)氏
太田記代子さんは、1934年(昭和9)に、弥生時代の佐賀県吉野ケ里遺跡の優れた性格を『考古学雑誌』に紹介した七田忠志氏の教え子である。医学部を卒業した後は、医学の世界で活動し、佐賀県内の保健所長を歴任するなど、県民の健康管理の分野に長くかかわっている。しかし、1982年(昭和57)、佐賀県は吉野ケ里遺跡が所在する吉野ケ里丘陵に工業団地の造成が計画され、その事前の発掘調査によって、甕棺墓群や環濠集落が検出され、弥生時代の前期から中期末まで存続する大規模な環濠集落であることが判明した。そして、1989年2月、このような吉野ケ里遺跡の発掘結果が広く報道されると、佐賀の自然と文化を守る会とこれを母体とする吉野ケ里遺跡全面保存会による遺跡の保存運動をはじめ、全国規模による遺跡の保存運動が展開された。
この吉野ケ里遺跡の保存運動に対し、太田さんは保健所長という公的な職務にありながらも、吉野ケ里遺跡の保存運動を進める団体とともに、広く多くの市民に吉野ケ里遺跡の保存を訴える活動をおこなっている。
その結果、吉野ケ里遺跡は、1991(平成3)年5月に特別史跡となり、さらに1994年に国営公園に認定され、2001年には吉野ケ里公園として史跡整備され、一般に公開されている。
ところが、佐賀県は、2011年(平成23)2月、特別史跡の北側一帯にメガソーラーを設置することを計画し、6月から設置工事に着手した。太田さんら吉野ケ里遺跡全面保存会は、このメガソーラーの設置案が提示された段階から、吉野ケ里遺跡の歴史的景観を著しく損なうことから、その設置に反対し、県に再考を強く求めている。しかし、県はメガソーラーをそのまま強行して設置したことから、設置したメガソーラーを早急に他所へ移設するように、多くの市民に呼びかけて取り組んでいる。
また、一方では、太田さんらは、これまで吉野ケ里遺跡を中心に、九州の弥生遺跡を世界遺産へ登録するように、地元で講演会を開催し、また広く署名活動を進めている。このメガソーラーを他所へ移設する要求と世界遺産への登録を求める運動は、まさに太田さんが中心となって進めているものである。これらの運動は、まだ実現するには至っていないとはいえ、これらの運動の理念はいずれも正しく、また高く評価されるものである。
居住地 佐賀市
生年 1936年
著書 『佐賀の明日を希って』石風社 2015年
勅使河原彰(てしがわら あきら)氏
勅使河原氏は、『考古学研究法-遺跡・遺構・遺物の見方から歴史叙述まで』などの著作によって、考古学研究上の理論の構築を深める論述を進めるとともに、『縄文文化』『縄文集落を掘る・尖石遺跡』など、縄文時代の遺跡を対象とする多くの著作を行いながら、縄文時代の社会の実体の解明に取り組んでいる研究者である。
また一方では、東京都東久留米市学校建設に伴う新山(しんやま)遺跡の発掘では、縄文時代中期末の敷石住居が検出されたことから、その成果をもとに、下里中学校に、発掘された住居跡一棟を基にした資料展示室がつくられているように、その成果が教育の場で活用できるよう指導している。さらに、東京都東村山市団地建設に伴っての下宅部(しもやけべ)遺跡の発掘では、縄文後期・晩期、古墳時代、奈良時代などの遺構や遺物が検出されたことから、住宅団地にそれらの発掘成果を生かした「下宅部遺跡はっけんのもり」の歴史的な公園が造られており、その成果が地域の人たちが利用できるものとなっているなど、長年にわたって、じつに多くの遺跡の保護・保存と地域の文化財として、その活用にかかわってきている。
また一方では、1980年代に、東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵へ早稲田大学が進出する計画が出された際には、この地域がもつ豊かな自然とそこに所在する遺跡、さらに歴史的環境が極力損なわれないように、戸沢充則氏、広井敏男氏らとともに、この地域の歴史的環境保存をはかる運動を組織し、その実質的には、その中心となって自然と遺跡保存の運動を広げている。その結果、この大学建設計画は所沢キャンパスを設けることになったが、この自然と遺跡を一体に維持する環境保全の取組みは、埼玉県を含む三者の協定により、環境を最大限に配慮した校舎の配置に変更され、しかも環境アセスメントに基づく運営を大学側に約束させるものとなっている。そして、勅使河原氏が取組んだこの活動は、公益財団法人トトロのふるさと基金へともつながっている。
このように、勅使河原氏の考古学の理論研究と縄文社会の研究を踏まえながら、地域の自然と遺跡保存に対する積極的な実践は、これまで大きな成果をなしてきており、高く評価されるものである。
居住地 埼玉県
生年 1945年
著書 『縄文文化』新日本出版社 1998年
『縄文集落を掘る・尖石遺跡』新泉社 2004年
『考古学研究法-遺跡・遺構・遺物の見方から歴史叙述まで』新泉社 2013年など
団体部門
浅川地下壕の保存をすすめる会(東京都八王子市)
東京都八王子市にある浅川地下壕は、旧陸軍の地下倉庫の建設として1944年に計画されたものであったが、敗戦直前の1945年には、中島飛行機株式会社の武蔵製作所の疎開工場として大規模に拡張されたものである。これは、戦時下の多摩地域の実態を物語る戦争遺跡であり、これまで、その保存と公開が要望されてきたものである。
この浅川地下壕の保存をすすめる会は、1997年(平成9)11月に発足した会で、この地下壕を保存するため、地元の八王子市議会議員との懇談や八王子市へ保存要望を積極的に進めている。また、その一方では、市内外の住民たちに、この地下壕の存在の周知と、その歴史的な意義の普及をはかるため、会の発足直後12月10日から会報『peaceあさかわ』の定期的な発行を開始し、現在141号に及んでいる。また、この会が発足した後、この地下壕の見学会を定期的に開催し、全国からの見学の要望に積極的に対応している。
この浅川地下壕の保存を進めるうえで、最も大きな課題は、この広大な地下遺構が、住宅地に隣接していることである。そして、地下壕の入口には、鉄製の門扉が設けられているとはいえ、地下壕内が悪用されないように、また小動物の棲息に利用されるなどの危惧を地域住民がもたないようにしながら、この地下壕を保存し、その重要性の認識が広く周知されることが必要である。現状は、これまでの会による歴史的な重要性の理解を広めるための講座の開催、八王子市や東京都、国への公有化の要請活動によって、周辺の居住者による理解も広がってきている。さらに、八王子市に所在する国立東京工業高等専門学校の教師・学生らによる協力によって、地下壕の三次元計測も進展しており、このような会による保存と活用に対する先進的な取組みは、各地に所在する戦争遺跡に対する保存・公開にとっても、参考にすべき点が多く、高く評価されるものである。
代表者 斉藤 勉
著 書 会報『peace あさかわ』第1号(1997年12月)~第141号(2023年12月)
『フィールドワーク浅川地下壕 学び・調べ・考えよう』平和文化 2005年