第22回和島誠一賞
本会では、文化財保存運動の先駆者であった故和島誠一氏の科学的精神とその思想に深く学び、21世紀における文化財の保護、活用および普及活動の飛躍的な発展を期待して、2000年に「和島誠一賞」を制定し、広く全国で文化財の保護、活用、普及などに関連して顕著な活動をおこなった個人・団体を表彰している。
2021年3月27日に開催した選考委員会で、下記の選考委員と協力委員からの候補者推薦をもとに慎重に審議した結果、個人部門は木村英明氏(北海道)と中尾芳治氏(京都府)両名を、団体部門は「東毛考古学サークルはにわの会」(群馬県)を第22回和島誠一賞の表彰者・団体とすることに決定した。
【選考委員】小笠原好彦(選考委員長)、橋本博文、勅使河原彰、杉田義、大竹憲昭、
日暮晃一、和島明、神戸輝夫、澤田秀実、松田度、
【選考協力会員】今岡稔、大平聡、川岡勉、木村英祐、小宮みち江、高瀬克範、
七原惠史、萩原三雄、松島町子、用松律夫
受賞者の紹介
個人部門
木村英明氏(きむら ひであき)氏 北海道在住
木村英明氏は、北海道やシベリアの先史考古学の研究を進めながら、北海道の遠軽町白滝遺跡群(旧石器)、恵庭市カリンバ遺跡(縄文)、開拓使札幌本庁舎跡(近代)といった北海道の歴史を理解するうえで欠くことのできない各時代の重要な遺跡の保存と活用に尽力している。その一つの白滝遺跡では遺跡のみでなく、地質遺産と黒曜石原産地をも保存することを目的とするジオパークの認定に中心的な役割をはたしている。
木村氏は、白滝遺跡やカリンバ遺跡の発掘を行い、その報告書をもれなく刊行し、遺跡の優れた内容と学術的な価値を明らかにし、さらに保存の処置を講じている。そして、必要な場合は、整備、活用までかかわっており、研究者はどれだけ一つの遺跡に責任をもって関与すべきか、それを後進に行動をもってよく示している研究者である。
北海道では、国・道指定史跡ですら、遺跡に関わる情報が少なく、研究上で活用することが難しいものも少なくないといわれている。木村氏が関与した上記の遺跡は、現在は国史跡になっており、遺跡が残るとともに、その詳細な発掘調査の情報も利用できるようにしていることは、北海道の考古学にとって計り知れない財産になっている。また、これまで木村氏の研究と遺跡保存への薫陶を受けた多くの学生たちは、現在、北海道の各地で文化財保存に大きく貢献してきている。
なお、木村氏の文化財保存への活動の原点は、高校生のとき、北海道文化財保護協会の設立運動に参加し、1961年には、知事・教育長らと座談会に参加したことがある。また東京での学生時代に、千葉県加曾利貝塚の保存運動、平城宮跡の保存運動にも関与した経験をもち、それらを踏まえて北海道で遺跡の研究と保存をはかる中心的な役割をはたしてこられたことは、高く評価される。
経歴 1943年生まれ。
1967年札幌大学に着任、2008年の退職まで同大学教養部・文化学部教授等を歴任。
学外では、北海道文化財調査委員、札幌市文化財保護審議会委員、
北海道考古学会委員長などを務めた。
著書 木村英明『シベリアの旧石器文化』北海道大学図書刊行会 1997年
木村英明『北の黒曜石の道 白滝遺跡群』新泉社 2005年
上屋眞一・木村英明『国指定史跡 カリンバ遺跡と柏木B遺跡』同成社 2016年
個人部門
中尾芳治氏(なかお よしはる)氏 京都府在住
1954年から大阪市法円坂で発掘が開始した難波宮跡は、前期難波宮と聖武朝の後期難波宮の遺構が見つかっている都城遺跡である。この難波宮跡の発掘で見つかった宮殿に関連する遺構は、つねに保存問題がともない、初期の発掘では、山根徳太郎氏・直木孝次郎氏らの努力で遺構の保存の方向が決まることになった宮殿遺跡である。
中尾芳治氏は、京都大学を卒業後、難波宮跡の発掘にかかわり、1962 年以降、難波宮跡の発掘の中心者として研究を進め、前期難波宮の遺構が7世紀半ばの孝徳朝の難波長柄豊碕宮まで遡るとする研究を前進させ、また遺構の保存と史跡整備も進展させている。
1990年からは、帝塚山学院大学の大学人として外に転出したが、なお引き続き難波宮跡の発掘の指導、研究、保存、さらに史跡整備に協力し続け、難波宮跡は大都市での古代都城跡として、史跡公園として高く評価されるに至っている。また、「難波宮址を守る会」の創設以来の会員として現在も活動を続けている。
中尾氏は一方で、難波宮跡での研究と保存の体験を踏まえながら、1991年から、上智大学アンコール・ワット遺跡国際調査団の一員として、カンボジアのアンコール遺跡の発掘と保存・修復にかかわっている。中尾氏が、この遺跡の発掘・保存にかかわったことから、関西からも多くの人たちが、アンコール遺跡を訪れるようになり、この遺跡の保存とカンボジアの復興に寄与している。そして、中尾氏によるアンコール遺跡への永年の貢献に対し、2007年10月、カンボジア王国友好勲章を授与されている。
このように中尾氏は、長期にわたって難波宮跡の発掘・研究と保存にかかわり、さらに難波宮跡での発掘・保存を踏まえ、カンボジアのアンコール遺跡に対する発掘・保存へ国際的にも寄与しており、高く評価される。また、地元の長岡京市の「恵解山古墳」や大山崎町の「山崎瓦窯跡」の保存整備にも、保存整備委員会の委員長として貢献している。
経歴 1936年生まれ。1960年から難波宮跡の発掘調査員。
以来1990年まで難波宮跡の発掘調査と研究、保存整備事業に従事する。
1990年から2004年まで帝塚山学院大学文学部教授。
大阪市文化財保護審議会委員などを務めた。
著書 中尾芳治『難波京』ニュー・サイエンス社 1986年
中尾芳治『難波宮の研究』吉川弘文館 1995年
中尾芳治編『アンコール遺跡の考古学』連合出版 2000年
中尾芳治編『難波宮と古代都城』同成社 2020年
団体部門
東毛考古学サークルはにわの会(略称:はにわの会) 群馬県
代表:小保方紀久 事務局長:石塚久則
同会は、1964年日本考古学協会の生産技術特別委員会窯業部会の下、群馬県太田市を研究対象地域として明治大学や駒澤大学が長期間活動を続けたことに影響を受け、地元高校生の郷土部の連合体が活動を始めたことが基礎となっている。地域の遺跡を守ることを活動の前提としたアマチュアの考古学勉強会として、1967年に結成・発足した。現在、会員10名で活動している。
文化財保存全国協議会結成時から、その活動に参加し、文全協の当地の見学会の案内・講師を積極的に引き受けてきた。
地元、新田氏の居城、金山城の歴史と文化、および自然を保護する「金山の自然と文化財を守る会」のシンポジウムを主催する等、文化財保存運動に取り組んできた。その一環として焼山遺跡の総合調査記録『焼山遺跡総合調査報告』は、地道な分布調査、フィールドワークに基礎をおいてまとめられたものである。
そのかたわら、54年の長きにわたり会誌『太古』の刊行を始め地道な学習活動を継続してきた。『太古』の最新号は2021年春季号で49号となった。
活動初期には、「上野国国分寺遺跡を守る会」の遺跡保存運動に全面協力し、参加した。群馬県営ぐんまこどもの国造成地内における群集墳、古代製鉄遺跡などの保存運動では、シンポジウム『環境を守る「ぐんまこどもの国」を考える』を主催した。
特に、群馬県企業局職員による伊勢崎東流通団地遺跡における三原田遺跡出土遺物大量投棄事件を日本考古学協会にて告発したことは、増え続ける遺物の保管問題を全国的な視点で考える契機となったという点で高く評価される。
北関東における古墳時代前期土師器の石田川式の標識遺跡保存運動では、「石田川遺跡を考えるシンポジウム」を主催した。また、北関東自動車道太田強戸パーキングエリア建設地内に発見された古墳時代前期方墳の保存運動では、シンポジウム「成塚向山1号墳を保存しよう」を主催し、現地見学会も開催した。さらに、会員が古墳時代前期豪族居館遺跡の新田東部工業団地遺跡(中溝深町遺跡)の保存運動にも関与し、その結果、遺跡は中心部を通る道が付け替えられるなどして保存され、県指定史跡として整備・活用されている。
古墳時代前期の前方後円墳、朝子塚古墳の上を高圧線が通ることになると、公開講座「今、送電線を考える・朝子塚古墳を横切る」を主催し、その景観保存を求める運動をも展開した。
最近では、地元の考古系歴史資料館、太田市立藪塚本町歴史民俗資料館の存続を求めて、市当局に要望書を提出するなど精力的に活動中である。
以上、同会は、①地域における長期の文化財保護運動、②遺物投棄事件の告発という全国的な問題点の提起、③現在にわたる継続的な活動が評価された。
刊行物 『焼山遺跡総合調査報告』(1968年)
機関誌 『太古』(最新号、2021年春季号、通号49号)